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教職総合ゼミナールのレポート

「論理哲学論考」はカテゴリーとしては哲学書に属するのだが、実際に取り組んでみて思ったのは、本書の進み方が、非常に数学に似ているということである。用いられている言語が、自然言語のように見えて、実は人工言語なのである。「事態」「名」「対象」など、日常で使うありふれた単語に、明確な定義が与えられている。このゼミでは、毎回のように、術語の定義に苦しんだが、自然科学系の学生にとっては非常によいトレーニングになったと思う。

 自然言語で記述される学問や科目と人工言語で記述される学問科目があるが、両者の間には方法論的な差異がある。それは術語などの「定義」の問題である。

 学問などと大げさに言わなくとも、中学高校で扱われている数学や理科の時点ですでに人工言語によって語られている。中学校の課程ではそれほどではないにしても、高校の数学や理科は定義を明確にしながら進まないと、すぐに頓挫する。数学や理科は定義を知らないと理解できるわけがない。

例えば、化学で物質量(mol)が分からない生徒に、物質量の定義に遡って確認するために、「じゃあ原子量ってなんだっけ」と聞くとそれすら分からないということが少なくない。大学受験を控えた高校3年生でも定義をきちんと把握して理解している生徒は多くない。物理や化学の概念や諸公式は「よく分からないけどただそうやれと教えられた手続き」でしかないのである。「なぜ」と問う段階が抜け落ちているのである。

教育実習で高校生に数学を教えたが、定義の重要性をきちんと理解している生徒はやはりそれほど多くはなかった。定義がしっかり掴めていれば、数学や理科は自然と理解できる。そのことを教師は生徒に伝えるべきだと思う。

 このゼミを通して、私自身、定義の重要性を改めて確認できた。数学や理科の教員免許を取得しようとしている我々にとってはいいトレーニングであったと思う。

 しかし、定義が重要であるというのは、自然科学系の学問以外にも通用する普遍的な態度なのであろうか。私は自然言語で展開される分野に関しては、「定義」という概念がむしろ害悪になる可能性があると思っている。

 害悪の最たるものが、受験生がよく使っている英単語集である。単語集とは結局英単語と日本語の一対一対応のカタログである。言い方を変えれば、その単語集を使っている生徒にとっては、「受験ではこの英単語はこの日本語で定義しますよ」と宣言されているようなものである。自然言語における単語の意味の幅は人工言語のそれに比べてはるかに大きい。その自然言語を母語とする人間の社会の中で、あるいは膨大なテキストに触れることで、少しずつ養われる言語感覚である。

 標語的に言えば、人工言語は定義から学び、自然言語は経験から学ぶべきである。実際の高校生はこの真逆を実践しているように思えて仕方がない。物理や化学や数学の用語の意味はあいまいに把握して、問題の解き方のアルゴリズムだけを丸暗記する。それに対して、英語は単語の意味を一通りだけ暗記して、文章を読もうとする。それでは勉強が分からなくなり、つまらなくなるに決まっている。

 教育の現場で、英語や数学そのものだけでなく、「英語とはどういう言語か」「数学とはどういう体系か」などというメタな説明もしたほうがいい。そうすれば、腑に落ちて勉強に励むことができる生徒も増えるはずである。

 メタなものを求める生徒も少なからず教育現場にはいるはずである。

 

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